2012年6月30日土曜日

世情・・・考


 久々にツタヤによった。5枚1000円のPOPに目がとまり、CDをレンタルした。矢沢栄吉、山口百恵、タイガース、そして中島みゆきを2枚。
 中島みゆきの「世情」に感動がこみ上げ、青春のあの頃がフラッシュバックした。
 浅野目義英と言う人間がいる。大学の同期ではあるが1歳年上である。感性が鋭く、話す言葉、書く言葉が美しい。そう言えば僕が大学で学んだことは、ひょっとしたら、彼から学んだ事なのではないか、近頃そう思う事がある。
 「こんな歌があるよ」と中島みゆきの「世情」を口ずさんだ。と言うのもその頃の法政大学は中核派の拠点校で三里塚闘争でキャンパスは騒然とし、シュプレヒコールが時折響き渡っていた。田舎者の僕はワクワクするようなオズオズするような、不思議な感覚でただ自分の小ささだけが身にしみた。
 「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて 時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと戦うために」 彼は歌詞を口ずさみ、そのあと色々な話をするのだが、それからと言うもの彼の雄弁の背には、この歌がBGMで流れているような、そんな気がした。
 こんなリアルな思い出は、本当にあった事なのかな、脳のノスタルジーの産物なのかな、そう思い「世情」を検索してみた。1978年4月に出されたアルバムに収録されて、世に出たようだ。で、僕が大学に入ったのが、その年。僕の知らない歌を彼は知っていた。あるいは聞いても聞き流すだけの僕に対して彼は、色々な物を感じていたのだろう。フラッシュバックしたものは、実際にあった事なのである。ひょっとしたら今も彼はこの歌を口ずさみながら日々を生きているのかもしれない。 さて、7月、今月も頑張ろう。

2012年6月23日土曜日

月末ライブ:I love you

サングラスはカッコつけというよりもテレ隠し。ハーレーも馴染んできて、サックスも少しずつ心地よくなってきました。楽しくなるためには時間がかかります。その時間があまり気にならないと言うのが相性と言うものでしょうか。

2012年6月18日月曜日

五月雨・・・考

例えば
 五月雨やかなわぬひとの事思い あるいは
 かなわぬと思い募れば五月雨る と恋唄などを考えてみる。季語は「五月雨」である。梅雨、である。
 昔は交通手段もさほど発達しておらず、雨となれば、行動は制限される。まして五月雨となれば、どうしても家におらざるを得ない。行きたくても行けない、思いは募る。そんな情念が「五月雨」と言う季語には込められているように感じる。
 まさに今日は五月雨て、あまり外出もせず季寄せを読んでいた。
五月雨(さみだれ)てもの思うときはわが宿のなく蝉さへに心細しや(曽丹集) と言う和歌があった。五月雨→物思いにふける、と言うのは、やはり万葉の昔から、日本人の心に染み込んでいるのである。
 日本経済新聞の日曜日の俳壇が、僕の俳句の師匠である。ふと「投稿」を考え、小さな字の説明にメールでもできると書いてある。3作送ってみた。これから2年の内に、1作は乗るように、頑張ってみるか。

2012年6月11日月曜日

風を切り 風に煽られ 梅雨晴間

梅雨入りが宣言されたものの、昨日は心地よい日和であった。ハーレーでナフコに掃除道具を買いに行くと、あまりの心地よさに遠出をしたくなった。農作業が一段落した時、そうそう時々自宅で行うBBQに食材を提供してくれる友人たちにわが畑の産物を届けよう、と思い立った。貧乏性の僕はドライブとかツーリングとかジョギングとかウォーキングとか、もったいなく感じる。A地点からB地点へ目的を持って移動する間、その移動もできれば楽しく沢山の意味を乗っけることが大事なことであり、無目的に移動のみを楽しむのはガソリンと体力の無駄遣いだと思うのである。で、ハーレーのバッグに玉ねぎを詰め、生月、平戸へ向かった。
 爆音を背に風を切って走る、実に気持ちが好い。そうそう、17歳の秋、バイクを自由に熟せる様になった頃、事故を起こし、以来自動二輪を封印した。この時期である、用心しなければならないのは、とスピードメーターに目をやると60キロ程度、これがハーレーの良い所、体感速度は80キロほどに感じる。途中4組ほどのツーリング集団とであった。最も多いグループでは30台は超えていただろう。また特殊な3輪タイプなど車種もいろいろである。普段あまり感じないがバイクを楽しむ人たちは多いのである。
 夕方は北高のサッカー部の総会、その前に休日の日課である愛犬の散歩。その途中で見る風景は実に好い。長男が小学校4年ごろからサッカーを始めた。試合の度毎の送迎や会の世話、当時はそんな事に「大変」を感じたりもした。が、これはお世話ではなく子育てと言う楽しみなのである、と感じるようになった。昨日も子供やそのチームメートたちがはしゃぐ姿を傍らで見ながら、その親父たちと酒を飲み、子供の将来や仕事のことなどを話す。
 田舎で暮らすこと、移りゆく風景、すれ違うバイク、子供たちの成長、何気ない日常も、好いものである。

2012年6月4日月曜日

日々新た・・・


つつじは綺麗だけども花が萎れて、しがみついて、なんとなく哀れである。子供が係る高総体も負けてしまい、日曜まで予定していた応援送迎がなくなり忙中の閑を得た。萎れた花もろとも、つつじを一気に刈り込んだ。そうだ、つつじは、花が終わったら一気に刈り込む、それが好い。実に綺麗になった。
 
 特別庭造りに、拘りはない。枝ぶりを鑑賞するような、要するに審美眼がないのである。しかし、方針はある。適度に手はかける。基本、自分でする。木は何でも植栽する。雑木林、が理想形。伸びすぎてうっとおしくなれば枝ぶりやバランスなど考えずに、適当にあっさりと切る。ツルが絡むのは嫌だ。気掛けて退治する。芝生の雑草は気にしない。しかしできるだけ刈る。刈れば雑草も目立たないし、雑草の種が早めに駆除される。槇の垣根の一部を刈り、畑への出入り口となっている。芝生、雑木林、畑が、すべて庭、である。

 夏野菜は、雑草との戦い。その勝利の方程式を見つけた。まずは抜きやすい時に、一度抜く。しかしそれでも雨が何日か続き、日を置いて畑を見てみると雑草に覆われている。作物の周りは一度除草しているのでさほどでも無いのだが、畝と畝の間の雑草が、膝ぐらいまで伸びている。これが畑から足が遠のき全滅の端緒となる。そこで昨日、初めてぶんぶん丸の草刈り機(歯ではなく紐をブンブンと高速回転させて草を叩き折る感じ)を使ってその草を刈ってみた。畑の雰囲気が一気に変わった。

 コーンは種を3、4粒ずつ撒いていく。成長する途中で元気のいいのを残し、他は間引きする、と言うのがマニュアルである。しかしこれでは間引きするときに地盤が弱くなり、残されたものが不安定になる。いっそ育つものは間引きせずに一緒に育てる。むしろ風に強くたくましく育つ。

 枝打ちの木は畑で燃やす。灰が石灰の代わりの土壌改良剤である。自家消費が基本であるから農薬は使わない。できるだけ循環型農業である。

 芝生もやめようかと思った。木も驚くほどに伸び、切り倒そうかとも考えた。夏野菜は無理、と敗北宣言をした。それでも体力が回復するとコザコザと仕事をする。新しい工夫と発見がある。毎日毎日、毎年毎年、同じことをしているようだが。ハーレーを磨いてドライブをした。上りカーブはコーナーリングが気持ちいいが、下りカーブは怖い、がそれでいい。だからハーレーなのである。時に軽自動車に煽られ、原付としのぎを削る。「エンジャクイズクンゾコウコクノココロザシヲシランヤ・・・」。明日は法人会のゴルフコンペがある。ゴルフも中年ゴルフを再構築しなければならない。