2011年12月31日土曜日

去年今年 感謝感謝と唱えけり


いろいろなことがありながら、それでも無事に一年を終えることができた。偏に日頃おつきあいをさせて頂いています皆様方のお陰です。心より感謝申し上げます。
来年も周りのみんなを楽しく、をモットーに過ごして行きたいと思います。笑う門には福来る、楽しく、頑張りましょう!!

2011年12月28日水曜日

柿一つ 青空にある なつかしさ

年末の大掃除、まずは外回り。忙中の閑、ふと見上げれば最後一つになった柿が青空に浮かんでいた。「冬の空」と言う冬の季語もある。雪空を表現する事もあるが多くは深く澄み渡った青空、いかにも冷たそうな青が想像されるとなっている。


 「柿一つ 冬空にある 懐かしさ」 でも良いのかどうか、プロではないので分からない。柿は芭蕉にも「里古りて柿の木持たぬ家もなし」の句がある。柿は何となく、懐かしい。

2011年12月19日月曜日

冬日和 旧交温め 帰路に富士







日曜の東京は心地よい冬日和であった。30年ぶりの再会、冬日和の暖かさを体の芯に感じた。帰路の機上から富士山を見下ろす事が出来た。これまでに、これほどまでに近くで見た事があったかな、そう思う程に冬日和の穏やかな日差しの中で、富士山は美しかった。


 帰路は岐路、「これは瑞兆なり」、何ぞと考える。仕事、頑張ろうと思う。


 父ちゃん、寒い。何かとあわただしい日々を送り、今年は薪ストーブの火入れが遅れた。家族の訴えを受け初火入れ、さらに火鉢も出した。火鉢にも流儀があって霧吹きをしながら灰を富士山の様に盛り上げる。茶の湯の窯と同じである。炭を置き、必ず鍋に水を張り五徳に乗せる。炭も信用できない。時々火が飛ぶ。五徳は儒教の五常の徳に通じるようで、しかし関係は無いようである。


 田舎に住むのも良いものだ・・・

2011年12月18日日曜日

窓から見える風景


日本拳法部のOB会で、ほぼ30年ぶりに先輩や同期、後輩たちと再開した。青春の空白が埋まった気がする。
自分史で言えば20代、呻吟していた。大学を卒業したこの時期が大学の頃の友人との縁をつなぎ続ける大事な時期であるのだが、貧すれば鈍する、と言うか、全てにままならぬ日々を過ごしていた。子供があの頃の自分の年代に差し掛かり、あの頃のことが思いだされる。あの頃の、みんなのおかげで、今の自分がある。ご無沙汰を謝し、感謝の気持ちを伝えることができ、とても楽しいひと時であった。
新宿のホテルから見える風景はとても美しい。お金は随分とかかるが、できれば子供達は三人とも、東京の大学に行かせてあげたい。さて、紀伊国屋で本でも買って、帰るか。

2011年12月13日火曜日

自衛隊の見学会


 射程距離は30キロ、佐世保市相浦町の自衛隊です。佐世保商工会議所の基地支援委員会の研修でした。
 佐世保市経済は、好不況の波をあまり受けない。これは自らの経営においても実感する。要するに陸海の自衛隊、米軍の「おかげ」なのである。

2011年12月5日月曜日

野菜を積んだハーレー






日曜日は赤玉ねぎ300本、普通のを100本、植えた。後、普通のを300本、植えるようにしている。中籠身の姿勢が腰に負担をかける。月曜日には整骨院行き、毎度のことである。菜園では白菜や春菊も育っている。間引きをして、何軒かの友人に配った。もちろんハーレーで。佐々の芳浦の密集地帯を爆音とどろかせ、ユーちゃんのとこへ、ちょっと気が引ける感じである。


 フェースブックに路上で出会った友人の、野菜を積んだハーレー始めて見ました、の書き込みがあった。

2011年12月3日土曜日

町乗りで

何台ものハーレーで編隊組んで、地響きを轟かせてのツーリングと言うのには今のところ、あまり興味が無い。購入の動機は「町乗り」である。車高が低いので取り扱いに慣れれば街乗りに最適だと思っている。むしろツーリングなどの遠乗りは、この機械、大丈夫か、と心配である。高速遠距離ツーリングは、やっぱ、カワサキかホンダか、なんて、ハーレーに乗りながら思ってしまう。

早速、ハーレーで玉葱の苗を買いに行った。明日は天気が良さそうである。取り敢えず赤玉葱300本、植える。

2011年12月2日金曜日

今年もお客様感謝の集い


 12月1日、サンパークで盛会に開催する事が出来ました。その年にお世話をさせていただいたお客様をお招きして、弊社並びに協力会のメンバーがあらためて、感謝のご挨拶と顔合わせをする会として、例年開いていますが、年々盛会になり、今回、100名を超えました。
 昨日はまたリフォーム成約2件、さらに女性スタッフ1名が2級建築士に合格、師走ダッシュの好スタートとなりました。
 いよいよ明日はハーレー納車、そう言えば大成会メンバーにビッグツインライダー2名。1名はヤマハ、もう1人はハーレーの1500CCとか。2人とも身長は180センチほど、ハーレーライダーに、こけた事ある?と聞いてみると、あります、との答え。バンパー付けてますから大丈夫、とのことであったが、自分で起こした?との質問に、いえ、無理です、友達呼びました、との答え。カーブとかバンパーやステップ、こすらんと?の質問に、急減速でゆっくり走ります、との答え。1500CCで、どのくらいスピード出すと?の質問に、いや、100キロ越えたらガタついて走れません、の答え。この不条理な乗り物は、何となく、僕に合いそうな気がする・・・

2011年11月26日土曜日


観光にあまり興味もなく、歳と共に好奇心もなくなり、ただ老いる、そんな感じのここ数年であったように思う。直腸がんを患ったことが契機ということではないと思うが、近頃富に50代の青春を謳歌しようと思う。例えば子供の頃、お金がたくさんあったらプリンを腹一杯食べようと思っていた。今、そんなにプリンをたくさん食べようとは思わないが、子供の頃の無邪気な思いを一つずつ実現して行こうと思う。
万里の長城、子供の頃、間違いなく見てみたいと思っていた。古本屋で借りた少年雑誌などに、世界の七不思議のようなタイトルでよく紹介されていた。行って見て、感動した。故宮博物館と言ってもあまりピンとこないがラストエンペラーの紫禁城、盧溝橋、天安門広場、歴史が凝縮された空間にとても感動した。
もうすぐハーレーの納車。自動車教習所で400に乗って体を慣らしはしたが、不安である。ハーレーを譲ってくれた友人がライディングの本をくれた。不安感は自分の身を守るための大事なセンスであると書いてあった。チュー年ライダーとしてゆっくりと楽しもうと思う。まだまだしたい事がある。ヤルバイ、元気宣言!

2011年11月23日水曜日

2011年11月14日月曜日

一月経過・・・・


 週に一回、伊万里まで習いに行っている。友人から紹介してもらった。その友人とはかれこれ20年を超える付き合いであるが、勤め先の系列会社、伊万里の櫓庵治http://www.yamaoku.co.jp/blog/roaji/index.htmlと言うおしゃれでおいしい料亭のようなところの社長になっている。そこで彼はお酒の会などを企画して、食事とともにピアノやサックスなどの演奏会で良い雰囲気をプロデュースしている。そして彼自身も、時には自ら演奏しているという事であった。
 夏ごろ久々に会い、2カ月ほど前にその櫓庵治に招待を受けた。彼は僕と似たような体型ではあったのだが、以前よりも痩せていた。当初、内心僕は水商売の責任者になった彼は、遂にアル中になって痩せたか、と思ったのだが、度々発生するスタッフのシフトの変更などで、時に厨房に入るなど、そんなことで痩せたのだと言う事であった。聞けばこの担当となった後、調理師の免許を取り、近ごろではソムリエの資格にチャレンジしているということである。そしてこのサックスである。
 「壷中天あり」の言葉のように、意外な一面を見ることはとてもうれしい。かねてより彼の向上心を見習っていた僕は早速、その先生に習う事にした。僕は出川風から、イケノメダカ風に、若干痩せた。彼はネコヒロシ風であった。将来彼とミニモミSAXで共演したい。
 昨日は劇団ふるキャラのミュージカル「トランクロードのかぐや姫」をアルカス佐世保で鑑賞した。とてもよかった。歌や踊りは人を感動させる。SAX、上手になりたいな、っと思った。聞くところによるとSAXは間口が広く、誰でもが吹けるようになるそうで、しかし、うまくなるのがとても難しいと言う事である。楽しく、楽しく、と思う。

2011年11月10日木曜日

感動の話

 去年、輸入住宅:セルコホームの全国総会の折、研修会が開催された。講師は社員教育専門の会社㈱新規開拓の女性社長でとても良い講演であった事が今でも思い出される。その中で小学校の先生の小話を、威風堂々と暗唱され、小生も学生時代は弁論部に所属し、「話す」と言う事に対しては一家言を有しているつもりではあるが、内容に感動し、態度に気圧される状況であった。その後、僕はその時の学校の先生の小話を、色々なキーワードを考えながら検索したのだが、なかなかその原典を探し出す事が出来なかった。
 大学時代の弁論部の友人に浅野目義英と言う埼玉の県議会議員がいる。彼は26歳で上尾の市議会議員になり30代半ばで市議会議長になった。その頃、日本経済新聞の正月版で彼が囲み記事で紹介されているのを、僕は長崎の片田舎で、何度も何度も読み返した。彼はまさに時代の寵児であった。その後の彼は、例えばこんな記事で紹介されている。

『夕刊フジ』(1996.11)/厚生省大汚職 橋本政権と茶谷

自らの“秘蔵っ子”として埼玉に茶谷容疑者を送り込んだ岡光氏の影響力をうかがわせる内容だが、岡光氏自身の名がひんぱんに登場するのは、選挙の前哨戦。自民党の公認を取り付ける戦いだった。激しく党の公認を争ったのは「日本一若い市議会議長」として知られる浅野目義英・上尾市議会議長(三八)と、茶谷容疑者だ。

浅野目氏は、自民党の福永信彦代議士の後ろ盾を得、二十五歳で上尾市議に初当選。三十八歳の若さで議長を務め、地元での知名度は茶谷容疑者をはるかにしのいでいた。党公認候補は上尾支部で決めることになっていたが、調整は難航。「浅野目は知っているが、茶谷って誰だ」の声も市議の間から出て紛糾した。水面下での公認一本化工作も進まず、今年七月には、上尾市内の市議宅で茶谷容疑者と浅野目氏が会い、直接対決するシーンもあった。その場にいた市議はそのときの模様をこう話す。
「会議は夕方五時から六時間に及びました。『絶対にあんたを応援することはない』と浅野目氏側が突っぱねたのに対し、茶谷容疑者は二、三言話しただけ。印象的だったのは『私はハメられたんですね』とボソッといったことでした」
茶谷容疑者は、平成四年四月から昨年三月まで埼玉県高齢者福祉課長。その時期、小山容疑者の社会福祉法人が運営する特別養護老人ホームには補助金三十億円以上が支給された。うち上尾市内の特養ホーム分は十億円以上。上尾市は「茶谷容疑者が自分にとって有利な所と考えても不思議はない場所」(関係者)のはずだった。加えて自民厚生族に通じる岡光氏の顔、補助金で太った小山容疑者の金があれば、すべてが順調に進むはずだった。「それが選挙区にきてみると知名度抜群の若者(浅野目氏)がいて思うようにいかない。それが『ハメられた』という一言に表れたのではないか」と市議の一人はいう。
思うようにいかない選挙区の動きに慌てたのは岡光氏も同じ。七月中には、茶谷容疑者と、その選対会計責任者、県議らが厚生省に岡光氏を直接訪ね、公認決定にまつわるゴタゴタを報告させられたという。
結局、支部では最後まで結論が出せず、党県連の裁定で八月六日、茶谷容疑者を公認候補に決定。茶谷容疑者は同月、厚生省を退職して選挙に臨んだ。
落選は、公認争いが尾を引き地元が一本化できなかったためという。茶谷、小山両容疑者、そして岡光氏の凋落はここから始まった。いや、関係者によれば警視庁の内定はすでに一年前から始まっていたというから、
茶谷容疑者の「ハメられた」は逮捕に至る今の事態までを予測してのものだったかもしれない。

 そんな彼とは今でも交流は続いていて、最近ではフェースブックで頻繁に動静が分かるようになった。その彼のFBに実は冒頭の小話が紹介されていた。

【招待状】

ある小学校で良いクラスをつくろうと一生懸命な先生がいた。

その先生が五年生の担任になった時

一人、服装が不潔でだらしなく、遅刻をしたり、居眠りをしたり

皆が手をあげて発表する中でも、一度も手を上げない少年がいた。

先生はどうしてもその少年を好きになれず

いつからかその少年を

毛嫌いするようになった。

中間記録に先生は少年の悪いところばかりを

記入するようになっていた。

ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。

そこにはこう書いてあった。

「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。

弁口もよくでき、将来楽しみ」とある。

間違いだ。他の子に違いない。

先生はそう思った。

二年生になると

「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」

と書かれていた。

三年生では

「母親の病気が悪くなり、疲れていて、

教室で居眠りをする」。

三年生の後半の記録には

「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、

四年生になると

「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」。

先生の胸に激しい痛みが走った。

だめと決めつけていた子が突然、

深い悲しみを行き抜いている

生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。

先生にとって目を開かされた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで、教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?

わからないところは教えてあげるから」。

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。

授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。

少年は自信を持ち始めていた。

六年生で先生は少年の担任ではなくなった。

卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。

「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番素晴らしい先生でした」

それから六年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金ももらって医学部に進学する事ができます」

十年を経て、またカードがきた。

そこには先生と出会えた事への感謝と、父親に叩かれた体験があるから

感謝と痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を

救ってくださった先生を、神様のように感じます。

大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生のときに担任して下さった先生です。」

そして一年。

届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母親の席に座ってください」

と一行、書き添えられていた。

先生は嬉しくて涙が止まらなかった。

2011年11月4日金曜日

決定 1340CC



 北松浦青年会議所(JC)の後輩に、ハーレーライダーが二人いた。僕のフェースブックの近況に反応した彼は1300CCのハーレーに乗っている。パパサン(883CC)を買おうと検討している事を言うと、あまりお勧めではないという事であった。

 昨日、JCの後輩の結婚式で、T君も乗ってますよ、と言う事で、三人でしばしバイクの話をした。さらにバイクこだわり派のT君はハーレーを二台持っていて、そのうちの一台は処分しようかとバイク屋に預けているという事であった。

 パパサンを新車で買う事に何となく心の隅っこにためらいを感じていた僕は、先輩なら安くしときますよ、との提案の先か後か分からないくらい瞬間的に、買おうと決めた。こだわりの友人から分けてもらう、これが一番リターンライダーの僕が求めていた購入方法なのである。聞くと1340CCFXR、パパサンよりも軽くて取り回しが楽だそうである。さて、いつデビューするか。自動車学校で5000円のチケットを買って、ちょっと勘を取り戻そうと思う。

2011年10月29日土曜日

秋深し・・・・

 ちょっとブログデザインもリニューアル。近頃ではフェースブックも簡単な情報発信に便利で、ついついブログ更新が億劫になってしまう。新デザインで気分一新。
 近況、後期授業料節約のため、長男の大学退学届を提出し、晴れて純粋河合塾生となった。これまで長男の携帯ブログ&その周辺交流人などをこまかにチェックしていた妻によると、近ごろ長男のその手の更新などが一切なされておらず、どうやら受験に集中しているようである。成績も上昇傾向にあるようだ。
 西高2年の長女は3年生が抜けた後の部活の人間関係に行き詰っているようである。コミュニケーション能力を高めるための良い経験であると思うが、成績は下降気味、近ごろちょっと気合、再注入、プチやる気のここ二三日である。
 北高1年の次男、近ごろやる気が出てきた。この意欲は小学校3年生で途絶えて以来である。それ以来試験勉強や受験勉強はそれなりにはしていたのであろうが、全く無気力人間であった。永い眠りから覚め、遂にやる気が出てきた。僕としてはこれが一番大事、成績はどうでもいい。人生は気合いである。
 僕、気合崩壊、スマホのSDカードの情報が全滅、何せ32ギガ、たくさんの貴重映像が入っていた。しかも水没とかの異常事態ではなく、SDカードを交換したりいじったりと言う事でもなく、日常の使用なので、何んとも釈然としない。シャープのインフォバー、けっこう気に入っていただけにこの信頼関係崩壊には気が滅入る。要するに購入4月でこれと言う事は、これからもこう言う事がありうるということである。スマホ本体の機械に何の問題もなく中のSDカードだけが突然死する、のである。恐ろしい話である。
 どうにも情報の回復は難しいようで、ヤマダへ行ってレシートを示すとあっさり新品との交換と相成った。何の手続きもなく新品を持ってきて、はいどうぞ、これはメーカーに返品します、となった。ヤマダデンキはハウスメーカーのS×Lを買収し住宅メーカーとなったので、もうここで商品を買うのはやめているのではあるが、このスピード感は心地よい。
 SAX、音感にはかねてより自信があり、めきめき上達している。むせび泣くように演歌をブルース風に、吹けるのももうすぐである。

2011年10月15日土曜日

いよいよSAX

始めました。なかなかおもしろく、うまくいきそうです。各種お祝い事、会社での「お客様感謝の集い」などで、これから演奏できたらと思います。
 ハーレーに乗って、SAX吹いて、こりゃ~持てるバイ。「モテ期」到来。ハーレーの鼓動、SAXの音色とともについにモテ期がやってくる。
 ウゥゥウ~、「モテ期が俺を読んでるぜぇ」

2011年10月13日木曜日

相川さんの手

 相川さんとゴルフをした折、相川さん使用のパターを見た。グリップが恐ろしくデカイ。握ってみた。直径7~8センチはありそうだ。これまでこんなでかいグリップは見た事が無い。
「何ですか、これ。やっぱり、日頃握りつけた大きさの方が落ち着くと言う事ですか」と尋ねてみた。若い頃はモテタであろう相川さんはクールにニヤっとするだけだった。
 相川さんは1200CCのバイクを持っている。ゴルフの後、居酒屋で一杯の折、
「相川さん、バイクでこんやったとですか、バイク、見たかったとに」
「酒飲むけん、こられんたい」
「代行で帰ればよかですたい」
「えっ、バイクの」
「1200CCのバイクの代行、相川さん、後ろに乗って」
などとショーもない話をしながら、たらふく飲んだ。
 883(パパサン)CCのハーレーを買う予定であることを話すと、1200CCライダーの相川さんは「後悔する、1200CCのハーレーば買わんば」と言い、僕が買おうとしているハーレーをミニハーレーなどと軽蔑した。
「いやいや、よかとですよ、こまかですけん、わたしは・・・」と自嘲気味に話し、話の流れで、手を比べてみた。
 デカイ手である。昔、180センチの平戸の市会議員が、
「指もナニも体の一部分ですから、基本的にナニだけが大きい、小さいってことは無いんですよ、比例して、そんな感じなんですよ」と真面目に話た事を思い出した。
 相川さんのパターのグリップがデカイ事、相川さんがニヤッとした事、手を合わせた時、氷解、って感じ、分かったのである。

2011年10月4日火曜日

強行軍で

親戚の不幸でお通夜に参列、葬祭場で寝て、今日は5時前には電車にのって、7時過ぎの飛行機で帰る。久々の強行軍、モノレールから見る朝日は美しい。

2011年9月30日金曜日

すべてはここから!!

8月頃の写真、左が近頃やたらとFM長崎でコマーシャルが流れる石工房松田石材の社長、真ん中がY本社長、そして右が、「ひょっとして出川」、である。実に驚いた。まさか自分がこうなっているとは。毎日鏡は見ているのだが、まさかこうなっているとは、思ってもいなかった。この頃で体重68.5、くらい。ダイエットの決意、そして具体的な行動へ。
 食事制限、本当は夕食を抑えるのが一番なのではあるが、健康のために生きる、生きるために生きる、みたいなことは無意味である。それを制限したなら何のために生きているのか分からない。朝食を抜き、昼をおにぎり程度で済ます。
 運動、ゴルフではカートに乗らずひたすら走る。夜会合が入っていないときは、中学校で、運動場を外回りで走る。15周、約4キロ程度か。
 で、現在65キロ、「ひょっとして出川」から「池野めだか」程度に変化しつつある。

2011年9月28日水曜日

メカは男のロマン

 しばらく乗っていなかったジャイロのエンジンがかからない。まずはプラグが点火しているか、を確認する必要がある。エンジンがかからないままに何度も何度も始動をするとプラグに油膜がまき点火しなくなる。プラグを取り出しふき取り、さらにサンドペーパーで若干磨く。点火は良好である。次にバッテリー。取り出して充電することにした。
 ハーレーを買おうと思ったら、少々メカに対する興味も復活してきた。男が機械や道具、例えば腕時計やバイク、車などに興味を持つのは、女性が子供を産めることと同じと言うか反対と言うか、子供を産めない男性は、機械や道具を自分の支配下において愛玩する、そんな話を前に読んだ事がある。なるほどと思わないでもない。
 友人のY本社長もまた道具好きである。スマホを売りながらメカに弱く、簡単携帯以上の機能を使っていなかったのだが、近ごろ、フェイスブックを始めた。僕にも友達リクエストが来た。「ゴットリ会いよっとに、今更友達リクエストや」と言いつつ、時々フェイスブックをのぞくと、「ただ今事務所で仕事中」なんて、そんな事わざわざ、書き込むか?て感じであるが、「また、買っちゃいました」との書き込み、ゴルフのクラブをまた買ったようである。道具好きの彼はネットで画面を見ながら、ゴルフ道具を思わず衝動買いするのである。
 昨日、Y本社長から電話があった。何でもゴルフバックのボタンが取れて、修理キットを買ってきた。何度も何度も修理しても、ちゃんとならん、とのことである。「テック、ばい、オイ」、彼は嘆く。久々に聞いた、「テック」なる言葉。気になって調べてみたら「木偶、木人形、不器用な人」と言う事らしい。不器用な人をテックと呼ぶ地域は他にもあるようだ。
 機械や道具に対する愛着、メカに対する憧れ、これらが男の本性から生ずるものとすれば、道具好きでありながらメカに弱いと言う彼の性向は、男としての本性の偏りを表現しているのかもしれない。そう言えば彼は、男としての弱い部分を、〇ビ〇ラでカバーしているらしい・・・

2011年9月25日日曜日

自転車の格納&ディスプレイ

今朝、子供を北校まで送った。高速効果で25分程度で到着、10時からの地鎮祭まで時間があり、かねて考えていた、ガレージの天井に自転車を格納&ディスプレイする作業に取りかかった。
横架材、滑車、フック等はあらかじめ揃えており、どうにか作業終了。昼からももう少し片付けをしてハーレーが入るようにしなければ、しかしまだ購入の決断はできていない!!

2011年9月24日土曜日

ハーレー…

買おうかな、と思ってハーレーダビットソンフェアに来てみた。でかい、乗りこなせるだろうかと悩む。しかし、このまま出川で朽ち果ててはならん。イワキコーイチにならねば。買おう。とりあえず来週試乗することにした。

2011年9月23日金曜日

久し振りに軽井沢

よか、最高。at EMUKAE SIRATAKE

白岳高原

神事を終え遊歩道を歩く。こんないい田舎、これからどうなるのかな、わが子とともに心配

老人会の高齢化

今日は白岳神社の祭り、朝から草刈りの作業である。数年前までは土俵も整備し、奉納子供相撲もやっていた。今や小学生が二人、中学生はいない。そう言えばこの白岳神社に至るこの広場の草刈りも地区の老人会がボランティアで、事前に刈っていてくれていたのだが、地区の財産である元気な老人会も高齢化して、活動範囲が年々狭くなっている。
これから地方はどうなっていくのかな〜。

2011年9月17日土曜日

完成見学会

モデルハウスが完成し、接客と資料作成。

2011年9月15日木曜日

ついつい更新がーーー

体重と格闘し朝飯を抜いたり、昼を抜いたり、いろいろな事で散漫になり、ついついBlogの更新が遅れた。 今週は親和銀行のゴルフ熊本遠征一泊二日、2ラウンド。今日は福岡で研修会、「Blogはこまめに更新して下さい」の講師の言葉に、思わず研修を片耳で聞きながらのBlog更新となった。 ちょっとやる気が出て来た、わが社なりの営業手法を確立しようと思う。

2011年9月1日木曜日

向かいの山の頂きに

. 風力発電の工事が始まった。
体重が65キロを超え、経験のないレベルをさらに上昇中である。今のところガンマーGTP以外は正常範囲であるもののこのままでは成人病の総合デパート「Y下社長」化してしまう。どげんかせんばいかん、オイの体重ばどげんかせんばいかん。と言う事でジョギングを再開。1万円のランニングシューズを購入、走りながら音楽を聞くためにハンズフリーステレオレシーバーを再セッティング。今回は仕事の帰り江迎中学校の校庭を走る事にした。去年の夏、ジョギングをスタートしたものの季節が移り暗くなるのが早くなるとともに、何となく猪に会いそうで、走らなくなった。そこでハタと、ひらめいた。校庭なら安全である。目標、鹿町パールマラソン5キロコース、出来れば10キロコース完走、55歳記念でホノルルマラソン完走。

2011年8月19日金曜日

多拠点分散


小が大に勝つためには一点集中、一点突破が原則である。その原則に背いた経営をしてみようと考えている。多角多拠点、全面展開、である。
どの様な商売でもまずお客様から商品なり会社なりを見つけてもらう事からお客様との関係がスタートする。そして共感してもらい信頼してもらう。まず取っ掛かりのお客様から見つけてもらうためにはいろいろな販売チャネルがあった方が、見つけていただく確率は高くなる。事務所があり広告、チラシ、さらに展示場を数カ所、お客様に接する機会を増やすための努力である。今回さらにリフォーム専用拠点を開設した。取り敢えず僕が常駐する。僕を含めて8人でこれらを運営して行く。非効率、コミュニケーション不足、管理不十分などの弊害が出ない様にしなければならない。来客時には接客をしながら、今まで事務所で通常行っていた業務を展示場やリフォームセンターなどの出先で、効率良くしなければならない。ITを駆使して普通にそれが可能であれば、わざわざ事務所に集結して仕事をするよりも効率的である。お客様からの電話は事務所で受ける。事務所、出先間の連絡はフェースタイムやSkype、メールやDropboxsで資料をやりとりする。高速が佐々まで伸び商圏は大きく広がった。かと言って会社が大きくなっては時代に対応出来なくなる。
小さいままで多角、多拠点、全面展開、成功するかどうか、最後は人間力にかかっている。

2011年8月15日月曜日

尾籠な話で恐縮ですが、終わります。

  総合病院で手術に際しての問診を受けた。先生から、ポリープが大きくて、内視鏡手術で切除出来るか微妙である事、台形のポリープは根が深い事、などが説明された。流れとしては内視鏡手術でポリープを確認し切除する事が危険であれば日を改めて開腹しての手術となる。内視鏡で切除出来ればその切除したポリープを検査に出し、スライス状にカットしてガンがどの程度まで腸本体に入り込んでいるか調べられる。もし直腸の本体にガンが入っていれば日を改めて再度開腹して直腸をカットする事になる。そんな説明を受けると、運良く早期発見であった、との楽観の中にも悲観的な心配が頭をもたげてきた。
  生まれてこの方、一度も入院をした事がない。入院する事になったものの、ひょっとしたら入院した翌日には内視鏡では無理ですね、と帰らなければならないかもしれない。順調に行けば二泊三日、長めに四日、さらに開腹となれば日を改めて、一週間から二週間、何ともはっきりしない。取り敢えず四日間の予定で準備、入院する事となった。
  結果はどうにか内視鏡での切除が出来、二泊三日で退院。二週間後、そのポリープの検査でも腸の本体にはガンは見られない、との先生からの説明であった。早期発見、めでたしめでたしである。いろいろな事がごく普通に何事もなく過ぎ去って行く。何でもなかった様な気もする。保険の関係で一月ほど経ってから診断書をもらった。「直腸癌」と言う病名を改めて目にした時、やはり、命拾いをしたんだろうな、と思った。
  ヤルバイ、元気宣言!!

2011年8月6日土曜日

尾籠な話で恐縮ですが(3)


 検査の結果はまさに大発見、であった。直腸に大きめのポリープができていた。1.5センチ以下は、その場で検査→発見→切除、となるのだが、2センチ近くになると危険度が格段に増し、総合病院への紹介と言うことになった。大きなポリープを切除するに際し、血管を傷つけ輸血が必要な場合が稀にあるためということであった。
 ポリープは大きめ、根元部分がくびれた形ではなく台形をしていて、しかも二段になっている。先生の見立てでは、この形状ではポリープの上段の部分は間違いなくガン、問題は下部のポリープのどの部分までガンが進んでいるかと言う事であった。また腸の本管に達していればさらに外科的手術、要するに開腹して直腸を大きめに切除しなければならないという事であった。
 便潜血反応では、ポリープ・早期ガンは発見できない場合の方がむしろ多く、進行ガンになってやっと大方が発見できると言う事であった。しかし、直腸に至っては進行がんでも便潜血反応で発見できる確率は50%以下であるそうだ。僕の場合、とりあえず直腸のポリープ・早期ガンの状況という見立てであり、
「あんた、運がいいね、この場合普通ほとんど発見できんとよ。来年になったらちょっと複雑になってたやろね。なんで、わかった?」と先生はしみじみと慈愛に満ちた目で語ってくれた。
「何か、下痢が多かったり、腹の調子が悪くてですね」
「そがんとはこのポリープとは一切関係なかとよ。ポリープが出血するかどうか、それが便のどの部分に付着するか、検査のサンプルがそこにヒットするか、この場合ほとんど発見できん、いや、ようわかったね」
 結果的にはガンの告知ではあったのだが、何となく、むしろ自分は強運の持ち主のように感じ、もっともこの事を問わず自分は強運とは思っているのではあるが、明るい気持ちになって病院を後にした。

2011年7月29日金曜日

尾籠な話で恐縮ですが(2)

 去年、胃カメラを何年かぶりに飲んだ。定期の健康診断で再検査が必要とのことによるのだが、結果は異常なし。今回は同じ定期の健康診断で腸の再検査となった。検便のサンプルを2日分提出するのだが、その内の1つに潜血反応があったためである。
 友人のY下社長は今や不健康の巣窟の様な状況で、健康診断ではほとんどの項目が危険水域を越えている。であるからやたら健康関係の数値やどこの病院が検査に適切であるか詳しい。胃カメラの時も福田内科を勧められ、確かに苦痛なく、難なく検査を終えた。そこで今回も福田内科で腸の内視鏡検査をしてもらうことにした。
 検査の前日、夕食後、寝る前に下剤を飲む。そして当日は朝から、何回も何回もトイレに行く。検査は昼過ぎと言うことで、1時に病院に入り、ソファーがあって、トイレがあってシャワーがある個室へと案内される。そこで2リットルの下剤を飲む。すべてを出しつくすのである。
 先般友人のI女史が、僕の勧めでこの病院で腸の検査を受けることになった。不安なI女史は、下剤を飲んだ後何回トイレに行ったかとか、度々に下々の出来事を、「尾籠な話で恐縮だけど」とワンクッション置く事もなく、そのものずばりのメールを送ってくる。そこで僕はこの話をエンドにしようと思って、官能ルポライター風に次のようなメールを送った。
 「いよいよ個室に案内された頃でしょうか。ソファー、トイレ、シャワー、狭い個室にこれだけのものを揃えると、何となく風俗を思わせるものの、そのしつらえは性欲をかきたてることもなく、むしろ厳かである。
これから2リットルの下剤をのみ、次々に押し寄せる波のような、終わりのない満ち引きを繰り返す。そして体内から放出された排泄物を、うら若い看護婦と確認し会うと言う、もし、そんな趣味がある人であれば、それはまさに恍惚の一時である。しかも健康保険が使える。今時、ソープで2時間3万円か、それと比べても、格段にリーズナブルな価格設定である。どうぞこれから更に深まり行くマニアックな世界をご堪能ください。
くれぐれも、排泄物を写メして、僕に確認を求めたりしないでください。」

2011年7月23日土曜日

尾籠な話で恐縮ですが(1)

人生50年も過ぎてくると、身体のあちこちに不具合が生じる。同年代が集まると、もっぱら、その手の話になる。Y下社長は近頃胃カメラで胃のポリープの細胞検査をして、どうやらガンではないらしいと、ホッと胸をなでおろした。一方Y本社長は狭心症と言う事でニトロを持ち歩く事になった様だ。得意のネット通販で購入したニトロカプセルのペンダントを、ワイシャツの第2ボタンを外して見せてくれた。しかしその狭心症は生来の気の小ささから来る被害妄想的なもので、病には至っていないようである。幼い頃、怪我をして真っ白な包帯をすると何となく嬉しかったように、Y本社長もニトロカプセルペンダントが嬉しそうである。
30年ほど前の事、ちょうど今の僕位の 年代の紳士との会話で、やはりその紳士も健康の話をと言うか、蘊蓄を、相づち名人の僕に対して語り始めた。「尾籠な話で恐縮何だけどね…」、で始まったその話の内容は覚えていないが、尾籠な話で恐縮、と言うフレーズを辞書的な知識では知っていたものの、こうもさりげなく、日常の会話の中で聞いたのは初めてで、その紳士に、大人の教養を感じたものである。
先般、腸の内視鏡検査をしてもらった。その経験談を話すに際しこの「尾籠な話で恐縮何だけどね」と語り始めようとチェレンジしたが、何となく言葉が浮いている。尾籠な話で恐縮ですが、肛門からカメラを挿入し、大腸の先まで見るんです。

2011年7月7日木曜日

Androidが馴染んできた。


画面の鮮明さ、使い勝手、遊び心、そうした点においてはまだAppleの方がリードしている様に思える。ただこのSHARP製のインフォバーA01はそれをけたたましく追撃する名機を予感する。あとはAndroid対応のアプリをどれだけ充実させるかと言う事だろう。何せAppleは一社で一製品、対してAndroidは製造会社が多い。厳密にはAndroidと一括りには出来ない。Android対応のアプリでも製造会社の製品によっては不対応あるいは不完全対応で、その点でアプリの進化が遅い。
カスタマイズしながら、大分と手に馴染んできた。

2011年7月2日土曜日

ガラスマ


携帯をスマートフォンに替えた。インフォバーA01、今のところAUの一押し人気機種である。iPod touchに始まってiPad2と使ってきて、Appleの使い勝手の良さに慣れ親しんできた身には、Android携帯は少々気難しい、小難しい。さてさて、どこまで使いこなしきれるか。
 通話料無料のSkypeは、使い勝手がいい。車のハンズフリーにも対応し、友人との取り止めのない長電話には最適である。
 6月28日は18回目の結婚記念日であった。一日過ぎた29日の朝、妻は、あら、大事な日、忘れとった、と言った。僕は、結婚記念日やろ、30日、明日ばい、と言った。
 何ば言よっと、28日よ、と妻は言う。女性の記念日に対する感覚は格別であるから、それは28日である事は間違いない。
 そうね、と僕は言い、ただ、ふと、その記念日を忘れる事と、間違った日をしっかり覚えている事、どちらが罪深いかな、と考えた。いろいろな人に尋ねてみた。ウゥ〜ン、みんな、唸って、答えは出ず---

2011年6月10日金曜日

原点・・・



 焼け野が原に立ちすくみ、ぐっとこぶしを握りしめ、明日に向かって立ち上がることから今日の日本は始まった。僕らの父や祖父の世代は「出稼ぎ」で復興を支えた。「東京タワーはオイが作ったとバイ」「高速道路はオイが作ったとバイ」そんな鳶やドカタのオンちゃんの話を、大ボラと土産話の中間ぐらいの信憑性で、子供の頃、聞いたような記憶がある。「長距離トラックは座席の後ろで寝られるごとなっとって、そいで、東京まで荷物を運びよった」、そんな話には何となく胸がわくわくした。
 労宿と化した高級旅館「一の坊」、仮設住宅の現場、そこにはニッカボッカ姿の職人が闊歩する。それぞれにカスタマイズされた腰ベルトに生活のすべての、生きるすべての道具が整然とセットされている。実に美しい。佐門豊作のバットよりも重い、西部劇のガンマンよりもカッコイイ。
 同級生のシゲちゃんにも今回の東北支援隊に「電設の職人」として同行してもらった。普段は帽子を普通にかぶりちょっとスローモーな酒飲みのオヤジではあるが、その帽子のツバを後ろに回し、腰に道具セッティングベルトを回すとスイッチオン、かっこは悪いが、存在感十分の職人に代わる。職人には上がり酒。一日目の仕事が終わり、セブンイレブンで酒を買った。部屋で飲み始めると少しずつ酔いがまわり、普段、現場でも家の中でもかぶっているという帽子のツバをぐるりと後ろに回す。スイッチオンである。
 「あら、シゲちゃん、焼酎じゃなかたい、そのパック、清酒って書いてあるバイ、労働者の上がり酒は焼酎やろ」
「イヤァ~、オイ、焼酎、駄目っちゃん、ばってん、こい、いっちょ、600円」
「2つ、1升で1200円か、焼酎並み、ま、よかか」と妙に納得し、僕は発泡酒を飲んだのだが、紙コップに注いだそれは泡があまり立たない。するめ、サバカン、出稼ぎのオンちゃんたちも、故郷に仕送りをした後のなけなしの金で、こんな日々を過ごしたのだろう。
 600円のパック酒を途中、冷蔵庫で冷やし、それを取り出して「冷酒は、うまか」と飲むシゲちゃん。みんなが寝静まったその夜、シゲちゃんは何やらぶつぶつ言いながら押入れのふすまを開け、それが自分に倒れ覆いかぶさり、ふすまと格闘し、トイレで用を足し、部屋を出て行った。部屋から数メートル先の自動販売機コーナーで一夜を明かしたようだ。ふすまとの格闘シーン、ぶつぶつ言いながらトイレで用をたす姿、なぜか自動販売機の前で寝ている場面、それぞれが目撃されていた。朝起きて、布団で寝ているシゲちゃんの横にはずされたふすまが、横にして立てかけてあるのを発見した僕は、「ふすま、何、それ」と尋ねた。「そう言えばシゲちゃん、ふすまと争いよったね」と水道職人麓さんが言い、戦場カメラマンの僕が関係者に取材を重ね、以上のような武勇伝の全容が明らかになった。
 電設の職人は伝説の職人になりつつある。気が向けば、第2号を著したい。

2011年6月5日日曜日

やっと九州



24時間でやっと九州、あと200キロ、安全第一。

2011年6月4日土曜日

東北支援 15 おわり



この危機に当たり、拱手傍観することは日本人として許されざることです。瓦礫の惨状をこの目に焼き付け、泰平に弛緩した心を戒め、原点に帰り、さらに復興の一助となることは、今後各位の人生において意義あり誇るべき事となります。また逆にこの国家的危機に何ら無関心である事は、時が経過するとともに心に大きな恥辱を残すのではないかと、憂慮します。ただ、何かをしたい、そう思っても何らつてのない遠方において『役に立つ』事はなかなか難しい事です。幸いなことに、弊社が数年前より取り組んでおります輸入住宅:セルコホームの本部が仙台にあり、別紙の通りの状況に呻吟されています。そこでセルコホーム本部を支援する事によってこの国家的危機に微力を尽くしたいと思います。
と言う事で呼びかけ、取り組んだ、今回の1週間の東北支援、しっかりとした形を残し終了する事ができた。今後は日常のなかで、日常を大事により充実したものにする事によって、社会における役割を果たして行こうと思う。いろいろと、良い経験であった。

東北支援 15 首都高突入



朝8時に東松島市を出発、東北道に別れを告げ、川口JCTから首都高に入る。13時

東北支援 14 一日のスタート



「一の坊」は松島でも3本の指に入る高級旅館であるらしい。災害以降、今のところ一般客は取っておらず「労働宿舎」、いわゆる労宿となっている。食事は質素である。微妙に美味しい。この朝食から一日がスタートする。今日のこの朝食で最後である。

2011年6月3日金曜日

松島やー

松島や ああ松島や 松島や は芭蕉の句であると言われている。芭蕉ではない、とも言われている。
松嶋や 鶴に身をかれ ほとヽぎす   曽良(そら) 芭蕉の弟子がこんな句を残している。「一の坊」の5階の露天風呂から松島を望む。鴎が親しげに目の前を飛んでいる。さて、鴎は季語か。季語ではないようである。
松島や 鴎は鴎 昔より
明日、松島を後にして、佐世保に向かう。

あとは焼酎をあおるだけー

http://www.youtube.com/watch?v=s6JjQHfScIc&feature=youtube_gdata_player




今日の仕事は辛かった。あとは焼酎をあおるだけ。
北野正徳 iPadから送信

2011年6月2日木曜日

東北支援 13 完了間近



いよいよ明日一日、作業は全般的にスムーズに進行して、明日内装下地を完了し終了する。後の仕事は無事に佐世保に帰ること。明日は余裕を持って終了する。

2011年6月1日水曜日

東北支援 12 躯体完了



1世帯2DK、約30㎡の4世帯で1連棟、これを作り上げる事が我々のミッションである。おかげさまで先行する現場を追い越し、同時にスタートした現場をはるかの引き離し、驚異的なスピードで躯体を完了した。明日からはサッシ、玄関を取り付け、断熱材を入れるなど内装にはいる。嵐の様に働き、形を作り上げ、土曜日早々にこちらを後にしたい。

東北支援 11 僕だって



頑張っています。送迎の運転、皆の活躍を写真やビデオに収め、編集しHPにアップして、コドリをして、ゴミ拾いをして。遂に断熱材を運んで腰が痛くなりました。まだまだ、ヤルバイ!!元気宣言!!!

2011年5月31日火曜日

東北支援 10 壁の立ち上げ



北海道帯広の大工さん2名が加わり、予想以上に作業は進行しました。

東北支援 ⑨ 建て方



外気温は9度、初夏にクールビズに変えつつあった僕にとっては、まだ冬に近い感じがします。昨日は暴風雨の養生が主な仕事でしたが、今日からは仮設住宅の建て方に着手します。北海道の大工さんも仲間に加わり、土曜日までに形を作り上げます。大成住宅支援隊のさばけ方を、示してきます。

2011年5月30日月曜日

東北支援 ⑧ 石巻、女川、災害の現場



駅の横に温泉があって、列車到着の30分前になると温泉に黄色いランプが点滅する、そんな事で有名だったそうである。漁師町特有の細い路地、駅や役場や福祉施設、病院などが集中し、きっとここは活気のあるいい街だったのちがいない、女川はそんな感じがする街である。ビルが横だわしになり、かろうじて形が残るビルの屋上には車が引っかかっている。内戦時代の東欧の映画に出てくる様な光景である。

2011年5月29日日曜日

東北支援 ⑦ 災害現場



災害現場を視察した。

東北支援 ⑥ 到着



20時間で到着するものと計画していたが、たっぷり24時間、丸一日の大移動であった。宿泊所は一の坊と言うホテルが用意されていた。観光客もいまのところなく、施設の被害を復旧させながら、災害復興のための施設として利用されているようで、各地から支援者が宿泊している。名勝松島を望む、趣のある旅館である。温泉も利用できるようである。
今夜はグッスリ、眠れそう・・・
今から、明日からの現場を視察する。

東北支援 ⑤ 福島着



あと100キロ、思えば遠くへきたもんだ。

東北支援 ④ 新潟へ



糸魚川、上越、柏崎と日本海沿いに北陸道を北上。急峻な山々が海岸に迫り、むしろトンネルの中を走る事が多い。ただ列島の弧に合わせるように前線が張り出しているものか、出発以来ずっと雨、そのためトンネルの方が走りやすい。左手の日本海には佐渡の島が横たうのであろうが、霧が深く見通せない。現在1240キロ、相変わらず麓親分はタフである。このままのペースで行けば全行程1650キロの半分は麓さんが受け持つのかもしれない。
iPad2とAUのWi-Fiルーターは絶好調、走りながらの投稿が出来る。エスティマも同伴の2トントラックも絶好調、快走している。新潟市が近くなり広がる田園では大方、田植えが終っている。

東北支援 ③ 北陸道へ



やっと1000キロを超えた。あと10時間程か。暗い中の走行は心細くまたバカな事をやったと後悔したが、夜も明け明るくなると元気が出てきた。人生は常に軽はずみな決断と後悔の繰り返し。

東北支援 出発 ②



大阪、710キロ、10時間 麓さん、脅威の体力、連続運転。

2011年5月28日土曜日

東北支援 ① 出発



1630キロ、頑張って行ってきます。

2011年5月25日水曜日

鼻炎が何と無く収まりつつある。

 ここ数年悩まされてきた鼻炎が何と無く収まりつつある。恐らくと狙いを付けていたアレルギーの元が、ほぼ判明した。たぶん、「ゆうかのお茶石鹸」、であろう。そんな話を一月前ごろからしていたら、新聞でもそうした報道がなされたそうで、まだ、完治ではないが、少しずつ治まりつつある。以前耳鼻科で検査した折には、杉、桧、ハウスダスト、カビなどには反応しなかったそうで、では何に反応しているのか、一つ一つ心当たりを頭の中で検証してみた。その時も多分お茶石鹸であろうと思ったのではあるが、その使用を止めたからっといって、ピタッと症状が収まるわけではなかった。それでお茶石鹸の使用を再開し、ズルズルと今まで来た。今回もお茶石鹸の使用を止めてもまだ鼻がムズムズ、目がシバシバ、とする。ただ随分と症状は低い。
  このお茶石鹸が直接アレルギーを引き起こしていると言うよりも、このお茶石鹸を使う事により鼻の粘膜や目が過敏、ナーバスになり、飛来物には何にでも過剰反応と拒絶反応を引き起こしている、そんなイメージである。まだしばらくは過敏な状況は続くだろうが、少しずつ症状は収まるだろう。夏、マスクは辛い。
  いよいよ土曜日、夕方から仙台に向かう。日曜日の夜について体調を整え、月曜から目一杯復興支援に力を振るい、土曜日、仕事を終え、仙台を発つ。日曜日の夜には戻れそうだ。

2011年5月20日金曜日

東北支援

 カナダ輸入住宅セルコホームの本部が仙台にあり、自体が大きな被害にあうと同時に、地元企業として仮設住宅の建設に取り組まなければならず、大変な状況に置かれている。パートナー企業として弊社にも応援の要請があり、オールセルコでこの仮設住宅建設に取り組むことになった。歴史的な未曾有の災害に役に立てることは幸せなことである。
 で29日から1週間、支援に行くことになった。隊長北野、大工4名、水道設備麓親子、電設1名、計8名、トラックに道具を満載し、それにエスティマ、車2台で向かうことになった。ただ「宮城県において従来の仮設住宅必要戸数:3万戸から約7,000戸減少」の報道がなされているとのことで、事態は常に流動的であるようだ。
 グーグルの地図で検索してみると、ここからだと北陸周りの方が東京周りよりも10キロ近い。潜在的に東京中心に頭も動いているのだろう。1570キロ、ヤルバイ、元気宣言!!!

2011年5月15日日曜日

引越し 一人でやりきれるか・・・



この年になるといろいろな物事を余裕を持って見る事ができる。それは客観的に見る事でもあるし、またむしろ主観的に捉えるという事でもある。つまり、客観的には悲惨であったり、深刻であるような事も、それをコンテキストの中で捉え、それまでに人生において培ってきたリテラシーを通して見れば、人生も半世紀を超えてくると、生活上に起きる問題は、人生のスパイス、味わうべき事ごととして捉える事ができるようになる。
  もう一度受験をしたい、頂点を目指したい、何と素晴らしい事であろうか。であれば中途半端に大学と掛け持ち自炊生活をしながらよりも、予備校の寮に入り徹底してやった方がいい。アパート代や買い揃えた家財などが無駄になる、また引越をしなければ、お金がかかる、いろいろと問題はある。課題解決は人生のスパイスである。
  で、家財を撤収しなければならなくなった。引越屋さんに頼むと約6万円。ふと、自分、一人で出来ないだろうか、チャレンジすべきではないか、と思った。しかし、冷蔵庫や洗濯機、大きめの家具など、どうしても一人では運べないものもある。わが子に、2時間程手伝いに来れないか、とメールをすると月曜日に試験があるけん無理、と無味乾燥の返事がきた。よし、自力で、と頭の中で作業をシミュレーションして見る。自動販売機の本体を運搬している光景が頭に浮かんだ。そう、あの運搬具があれば、と思い当たる。ナフコに行って、いろいろと店員に相談し、それがハンドローラーと言う品物で、ナフコ今宿店に在庫がある事がわかった。引っ越すアパートのすぐ近くである。運搬はこれで解決、続いてそれをどうやって軽トラックの荷台に載せ揚げる事ができるか。ずり上げる、しかない。腕力で差し上げる事は無理、品物の背中を荷台の後ろにくっつけ、背中を滑らせてずり上げるしかない。そこで品物の背中が痛まないよう、ずり上げがスムーズになるよう端材4本で「井」型の道具を作った。それを荷台に立て掛け、下の方の横棒に品物を載せかけ、ずり上げる。
  運搬も積載も比較的簡単に終了、ただ何分にも一人の仕事、養生しながらの作業であり、3時間程かかった。往復に5時間、作業が3時間、昼食を抜いてダイエットをかね、ある意味楽しく作業を行った。

2011年5月9日月曜日

連休の仕事



高所作業はこれで最後にしよう。

iPadで編集

2011年5月3日火曜日

今年の連休は・・・

今年の連休は
 久々に何もない。例年中学校のサッカーの遠征や105キロウォーキングに参加し、3日間がそれに費やされる。高2の娘はバスケ部のマネージャーで、高1の息子はサッカー部ではあるが、それぞれに応援に行く程でもない。この機会にやるべきことをやらなければならない。
  先ずはわが家のメンテナンス。木製サッシの木枠が相当に傷んでいる。防腐破水の塗料を塗らなければとかねてより思っていた。メンテナンスをしないよりはましではあろうが、それで大丈夫か心配である。
  畑の手入れもしなければならない。前に植えていたジャガイモの芽かき、それから耕し、畝を立て、とうきびを植える。草を払う。雨が降れば衣替え、夏物の背広を屋根裏から下ろさなければならない。大仕事ではないが何と無く休みの時にしかしない仕事である。
  九大生の息子はあえて茨の道を進む事を選択した。更なる受験への道である。予備校の寮へ子供を送る途中ベスト電器に寄ったらiPad2があった。早速購入、なかなかの使い勝手、仕事にも多いに活かせそうである。

2011年4月15日金曜日

外構工事 動画編集



来週23日24日は4カ所で見学会を開催、その内の一つ、佐々の物件です。土壁で作った自然素材の家です。現在外構の真っ最中、家がグッと引き立ちます。
iPod touchでビデオを撮影し編集、一連の作業も随分と熟達しました。

2011年4月11日月曜日

南モデル 動画編集試し


佐世保南モデルが完成した。佐世保南部と東彼杵3町への営業拠点となる。また現有の戦力でコスト増にならないように拠点を増やすことの実験でもある。この南モデルは最終的には販売するのでコストにはならない。ここで日々の業務処理をしながら、来客時には接客をする。auのWi-Fiウォーカーでネット環境を整え事務所との作業を分担連携する。
先ずは自分でやってみる。小さなiPod touchでビデオを撮影しYouTubeにアップしこのブログに貼り付ける。これが完成するかどうか。うまいこと出来れば、弊社の動画サイト「おうちで見学会」などは佐々の事務所だけではなくこのモデルハウスで接客の合間にもでも作成できると言うことである。
またスカイプと言うネット電話を実験して見た。良好である。これでコスト増を抑え多拠点化が実現できる。

2011年4月9日土曜日

iPod touchから

HDビデオを撮影しYouTubeにアップして自分のブログに貼り付けてみる。

2011年4月6日水曜日

スマートフォンが増えてきて

 簡単に動画に接するようになる。PCを立ち上げるのではなく手元で常に見れるようになる。特にユーチューブが優れているように思い、ブログにどう貼り付けるか、思案しつつ、ま、こういうことか・・・

大成住宅コマーシャル

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[高画質で再生]

2011年3月24日木曜日

春なかば・・・③

 九州大学の工学部は全期間を通して伊都キャンパスでの学生生活となる。田舎である。学研都市駅周辺に居住する。学生マンションを確保した。家賃は共益費などを入れて45,000円ほど。妻などは早く決めなければ物件が無くなる、などとあちこちからの情報で僕に小言を言うのだが、全国的に、大東建託などの過剰供給もあり、物件は余り気味であるとの、その道のプロとしての確信が僕にはあった。21日、休日の月曜日、学研都市駅のビル内に設けられた臨時の紹介センターに行った。物件はやはり余り気味で、空室が目立つ。学生物件はこの時期に決めなければ、一年間空室である。空室にさせるよりもと言うことで、物色する一方で、家賃が5000円、7000円と下がりつつある。まあまあの新築物件を、ほどほどの金額で決めることができた。
 長男は相変わらず遊び呆けている。早く独り暮らしをさせなければ・・・。
 長男の大学受験、次男の北高受験で、「受験」にいささか詳しくなった。「県北地区進学指導評論家」の肩書で質の高いアドバイスができそうである。と言うのも、大学受験の仕組みは複雑でその知識のあるなし、また少しでも早くその知識を得ること、これは将来に大きな差を生む。
 ちなみに高校進学編。たまたま次男は、兄姉、ましてや両親が西高であることから、単純なあまのじゃく精神などからか、北高を選んだ。長男の大学受験の友が北高にもいて、北高の大学受験の状況をよく話していた。東大を15人ほど受験するらしいなど、長男の言葉を借りれば「今年の北高は半端じゃねぇ」と言うことで、今年に関しては長崎県下公立高校偏差値トップの長崎西高(偏差値72、ちなみに星雲高校は偏差値74)を上回る勢いであるとのことであった。佐世保北高、東大合格者8名(内現役6名)、対して長崎西高3名、と言うように下馬評以上の現実の結果が出ているようだ。長男の受験の友の話では「2年生はもっとすごい」とのことで、おそらくこれから、北高ダントツ時代が、佐世保教育圏では形成されるものと思われる。

2011年3月16日水曜日

春なかば・・・②

 長男はQ大への関心をほとんど示さない。入学のための書類もほとんど僕が書いた。本人は突然、原付の免許を取りに行くと言いだし、参考書を買い、2日ほど読んで、どうせ落ちるだろう、「原付って馬鹿にするばってん、道路交通法、ぞ。簡単にいくもんか」と不合格を期待した僕の予想を裏切り、大村の試験場へ行って、あっという間に合格し、免許証を持って帰ってきた。何ぞ、禍とならざるや、心配の種がまた増えた。原付乗りまくり、遊びまくり、友人の家に泊まりに行ったかと思えば、わが家に20人近くが押し寄せ泊まっていった。事故を起こさなければいいのだが、いつの間にか黒髪は茶色になり、赤くなり、左耳たぶにはピアスが輝く。「大学生になって、一人暮らしをして、自立してから、好きな事をせろ」と注意し、それ以上は腹が立ったが、爆発するのをぐっと押しとどめた。
 次男は迷いが尽きない。北高、行きたくないな~、と突然言い出す。まあ、合格してから考えよう、と言い、そうか、あまり試験の出来が良くなかったか、と思う。ひどく落ち込んでいる。悪魔のような長男が家を出たら、次男としっかりコミュニケーションをとって、たくましい人間にしなければ何ぞと思う。次男は中学校の期末の定期試験程度の勉強で、北高受験に臨んだ。本人にとってはそれが普通のことではあるのだが、Q大に合格した長男を始め夫婦、長女、家族5人の内本人以外は全員、こりゃ、落ちるな、とその後を心配していた。が、合格した。こいつは頭がいいのか、運がいいのか。北高へ行ったら勉強はほどほどにサッカーに力を入れ、体と心を強くしなければ。打倒西高サッカー部、で親子で燃えてみようと思う。

2011年3月9日水曜日

春なかば・・・

 昨日、今日で高校入試、受験戦争最終段階である。長男の大学受験はほどほどで、親としては満足であったが、息子にしてみれば筆舌に表わしがたい何とも複雑な思いのようである。
 結果は第一志望のW大に不合格、滑り止め明治大学はセンター利用試験で合格したものの2月末の期限に入学金を納めることなくけっ飛ばし、昨日、国立のQ大学の結果を待つこととなった。本人はW大および東京方面への思い断ちがたく、Q大へ合格しても行かないと試験前からほざきまわっており、そのことを考えると腹も立ち、心配でもあった。Q大の試験の日は春の朗らかな日で、車の窓を全開にし、滅入った頭を薫風で癒していた。ついついスピードも出すぎ、考え事は結論が出る前に、白バイのサイイレンで遮断された。スピード違反、15,000円なり。
 おかげさまでQ大工学部に合格した。とりあえず入学する、来年のW大チャレンジを継続するかどうかはQ大生として一人暮らしをスタートしながら、考えなさいということで、話をまとめた。
 次男、高校入試、淡々としている。一日目が終わり帰宅して、勉強をするわけでもなく吉川英治の「宮本武蔵」を読んでいる。気合を入れて勉強をしている、そんな雰囲気はついぞ一度も見たことがなかった。心配で心配でならん・・・

2011年2月14日月曜日

砂時計

男は無造作に体を拭き上げ、タオルで前をそれとなく隠して、サウナの中に入ってきた。中の様子を伺う風ではあったが、僕と目が合う訳ではなかった。おもむろに入り口のドアの横の壁に掛けてある砂時計に目をやり、手をかけた。そして、およそ5分の2程の砂が落ちたその砂の量でも確認したものか、一瞬その砂時計を見つめ、引っ繰り返した。間違いなく、何かを確認し意図的に砂が落下する途中の砂時計をひっくり返したのである。計算機の液晶に表示された数字を「C」ボタンでクリアしたのではなく、クリアできないものをクリアしたのである。砂時計は途中でひっ繰り返しても、途中なのである。
僕はサウナに10分入りその後冷水に浸り再度サウナに、と言うのを3回行う。そうすることによって、サウナの効能が高くなると能書きがあったためである。なるほどそれをやると爽快になる。それ以来、どうしても10分にはこだわってしまう。またそれは肉体的な疲労回復のみならず、我慢強さであったり、初志貫徹の意思の強さであったり、苦行克服の精神上の達成感、宗教上の美徳さえ得られるからなのだと思う。であるから、10分には、こだわるのである。
 サウナに入った時、先に入った人より先に出ることは許されない。時々異常に我慢強い人に出くわすが、負けるわけにはいかない。負けそうなときは、3段になったひな壇の定位置の3段目から、一番下に場所を変えてでも、長期戦に備える。サウナは「精神」が大事なのである。
 さて、5分の2程でひっくり返された砂時計、しかし正確には落下を待つ砂が5分の3なのか、いや、半分程度なのか、よくよく見つめてみると半分より少ないような気もする。途中で挫折したという汚名を背負いその後の人生を歩むより、誇らしく、正々堂々と生きるためには、より確かな達成感を得るためには、現在の砂が落下し切った後、あらためて砂時計をひっくり返し、5分を計測するしかない。人生には不慮の出来事はつきものである。その時安易な方法を選択するか、さらなる刻苦勉励を選択するのかは、その後の人生を大きく左右する。最大で計算すると13分程度になるのか、その位、我慢せねば、子供の大学受験、高校受験も、成果を得ることはできないなどと願掛けにまで思考は発展し、考えはますます飛躍して行く。
 ところで、その人は、砂時計を途中でひっくり返し、何を得ようとしたのだろうか。その行為でどんな数字を得ることができるのだろうか。彼は確かに、考えて行動したようであった。僕はこの難問を、一生背負っていかなければならない。気分は爽快になったものの、頭の片隅に、この灰色が、季節の変わり目に居座った低気圧のように淀んでいる。

 芥川賞発表月の文芸春秋を読んだ後は、こんな文章になってしまう・・・

2011年2月7日月曜日

 2月になると第1週の日曜日は地区の野焼きとなっている。雨の時にはその次の週の日曜へと順延する。日曜日は何かと忙しい。この地区の野焼きを終わらせなければ、何かと予定が立てずらくなる。
 絶好の好天で、野焼きを行うことができた。ちょっと燃えすぎで、飛び火があり山火事寸前、消防車の出動となったが大事には至らなかった。地区の生産組合長カ~ヤンは、消防署の事情聴取を受けることとなった・・・。

2011年2月5日土曜日


 自宅の周りに荒れた農地があって、セイタカアワダチソウを始め草が生い茂り、見苦しさも極地に達していた。補助事業で基盤整備された立派な畑である。借り手も見つからず、何年も荒れ放題になっていた。その内の自宅に隣接した一部を、僕が作るようにした。一部と言っても、かなり広い。片手間では管理できない広さである。
 子供も少しずつ巣立って行く。順調にいけば一人は大学生となり自宅を離れ、高二の娘、高一の息子となる。娘の部活はバスケットのマネージャーと言うことで、親がかかわることはほとんどない。息子の今度入学する高校のサッカー環境がどうなるか、それでもこれまでの中学校のようには関わることはないだろう。少しずつ子供に手がかからなくなり、その分で、畑をしようと思う。
 できれば年に一度、会社のお客様を招待して、「収穫祭」をやるようにしたい。ジャガイモなどを収穫してバーベキューで青空のもと、お客様と交流する会をしたいと思う。どうせするなら明るく楽しく、色々と考えるとわくわくしてくる。今度の日曜は地区の野焼き、一日がかりである。それが終わると少しずつ暖かくなる。畑に出よう・・・・

2011年1月25日火曜日

好奇心が枯渇して


小さな会社の経営者の悩みは色々と有る。しかも尽きることはない。業績、資金繰り、人間関係、今日が良くても、いや、今日が良ければなおさら、3月後が、あるいは半年後、一年後が心配になる。また気持ちが萎えてみたり、慢心してみたり、悪い時にも良い時にも心に隙ができる。程よい緊張感と好奇心を持ち続けることは、中々難しい。特に近頃、好奇心がしぼんできたようで、こりゃいかん、と思っている。
大学受験の子供の塾の迎えに、夜の10時過ぎに市役所の近くまで、毎晩行くのが、意外に大変で、なんとなく箍(たが)がはまった感じで、日々の行動範囲が小さくなってしまった。しかしこれも後一月、2月3月4月、受験、卒業、入学と慌ただしく過ぎていくだろう。今、早岐にモデル展示場を造っている。完成すれば佐世保南部と東彼杵3町への営業拠点となる。入学式が終わる頃に完成する。4月以降が勝負である。ま、それまでは家庭に埋没し、子供たちの新しい人生のスタートを応援するのも、ある意味、活力の源になるだろう。今は動かず、色々のものを涵養する時期、と言うことである。
先般、会議所の新年会で朝永市長とお話をしたおり、105ウォーキングが今年で最後、とのことであった。最後、出らんば、との話になった。こう言う局面で軽はずみな僕は、必ず、よし、やるか、となるのだが、夜の宴会にしばらく遠ざかっている関係で、酒を飲んでも今一高揚感がなく、軽はずみによし、と言うことにはならなかった。
今日は塾の迎えもない。天気も良い。夕方、久しぶりにウォーキングをして鹿町温泉のサウナでリフレッシュしようか、体重3キロ、落とさなければならないし、105ウォーキング、出てみるか・・・

2011年1月18日火曜日

寒い・・・


 寒すぎる。メタボで覆ってはいるが、寒さが骨身にしみる。去年末、何となく気忙しく、薪の確保ができなかった。雪模様の年末年始、一日中わが家の薪ストーブは焚きっぱなし、それでも寒く、薪はどんどんと灰になる。年が明けやっと、薪の確保に動くことができた。
 「薪、あるぞ、取りに来い」、地区の先輩からのありがたい言葉、まさに心が温まる。早速取りに行った。軽トラックいっぱい、これで20日分位だろうか。ふんだんに薪があり、惜しげもなく燃やす。薪ストーブの熱よりもこの事自体が暖かい。逆に薪のストックが少なく、けちけちと少しずつ燃やす、この雰囲気が寒々とする。
 センター試験も終わり、わが家の受験戦争ももうすぐ終わる。春が待ち遠しい・・・。

2011年1月10日月曜日

おかしな光景

auからシャープ製のスマートフォンが発売され、50万台とも言われるヒット商品となったようである。周りにも利用者が少しずつ増えてきた。
 フリックと言うタッチパネルの操作のやり方がある。パネルを指先で軽く擦りあげる様な操作なのだが、無骨なメタボ中年男子が背中を丸め、小さなスマートフゥオンを操作している。そがん力まんでもよかろうに、と思うくらいに肩に力が入り、まるで忍者が手裏剣を投げるような格好である。そんなメタボオンちゃんたちが2、3人、会話もなく黙々と手裏剣を投げ続けている。無理するな、簡単携帯に買い換えろ!!

2011年1月8日土曜日

初夢を実現するか・・・

 年末年始、体調を崩し、賀状も年が明けての取り組みとなってしまった。何となく気合が入らない。気合だけでこれまで生きてきたのだが・・・。そう、これからは衰える気力・体力を経験と知恵で補い、過ごしていかなければならないということか。
 さて、いよいよ受験である。大学と高校の受験、特に大学は、子供の将来を大きく左右する事となる人生の岐路である。かつてはあまり遠くには行きたくない、などと言っていたが、去年の夏ごろから「東京志向」となりった。東京志向は上昇志向、と同義語に、昭和世代の僕には感じられる。東京は危ない、行きたくない、そんなことを言われると情けなくなる。恐れを上回る好奇心があって欲しいものである。大学に行ったら留学したい、そんなことも言ってほしいと思う。縮み思考ではこれからの時代、生きていけない。
 子供が大学生になったら一緒に酒でも飲んで、東京の息吹を感じたい。まずは、東京に慣れる。関東近辺には僕の大学の頃の友人も多い。埼玉辺りで住宅会社を立ち上げようか、色々と考えないではない。勝算が無くはない。良し、やるか・・・、と、良い初夢であった。
 夢は実現のためにある・・・。