2011年2月14日月曜日

砂時計

男は無造作に体を拭き上げ、タオルで前をそれとなく隠して、サウナの中に入ってきた。中の様子を伺う風ではあったが、僕と目が合う訳ではなかった。おもむろに入り口のドアの横の壁に掛けてある砂時計に目をやり、手をかけた。そして、およそ5分の2程の砂が落ちたその砂の量でも確認したものか、一瞬その砂時計を見つめ、引っ繰り返した。間違いなく、何かを確認し意図的に砂が落下する途中の砂時計をひっくり返したのである。計算機の液晶に表示された数字を「C」ボタンでクリアしたのではなく、クリアできないものをクリアしたのである。砂時計は途中でひっ繰り返しても、途中なのである。
僕はサウナに10分入りその後冷水に浸り再度サウナに、と言うのを3回行う。そうすることによって、サウナの効能が高くなると能書きがあったためである。なるほどそれをやると爽快になる。それ以来、どうしても10分にはこだわってしまう。またそれは肉体的な疲労回復のみならず、我慢強さであったり、初志貫徹の意思の強さであったり、苦行克服の精神上の達成感、宗教上の美徳さえ得られるからなのだと思う。であるから、10分には、こだわるのである。
 サウナに入った時、先に入った人より先に出ることは許されない。時々異常に我慢強い人に出くわすが、負けるわけにはいかない。負けそうなときは、3段になったひな壇の定位置の3段目から、一番下に場所を変えてでも、長期戦に備える。サウナは「精神」が大事なのである。
 さて、5分の2程でひっくり返された砂時計、しかし正確には落下を待つ砂が5分の3なのか、いや、半分程度なのか、よくよく見つめてみると半分より少ないような気もする。途中で挫折したという汚名を背負いその後の人生を歩むより、誇らしく、正々堂々と生きるためには、より確かな達成感を得るためには、現在の砂が落下し切った後、あらためて砂時計をひっくり返し、5分を計測するしかない。人生には不慮の出来事はつきものである。その時安易な方法を選択するか、さらなる刻苦勉励を選択するのかは、その後の人生を大きく左右する。最大で計算すると13分程度になるのか、その位、我慢せねば、子供の大学受験、高校受験も、成果を得ることはできないなどと願掛けにまで思考は発展し、考えはますます飛躍して行く。
 ところで、その人は、砂時計を途中でひっくり返し、何を得ようとしたのだろうか。その行為でどんな数字を得ることができるのだろうか。彼は確かに、考えて行動したようであった。僕はこの難問を、一生背負っていかなければならない。気分は爽快になったものの、頭の片隅に、この灰色が、季節の変わり目に居座った低気圧のように淀んでいる。

 芥川賞発表月の文芸春秋を読んだ後は、こんな文章になってしまう・・・

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