2012年7月30日月曜日

タカダヨシヒコ:テイクファイブ


 二日酔いでグワイが悪くなければ、5時半ごろ目を覚ます。これまではまんじりともしないで、起きだすべき時刻を待っていた。ふと、これはもったいない、と考えるようになり、本を読むか、畑に出る。晴耕雨読である。昨日もスマホで音楽「吉田拓郎」を聞きながら、柿園の草を払い、キュウリにネットを張った。キュウリは種をまいていたら10本ほど、苗が成長している。かつてゴルフの練習のために使っていたネットが役に立った。良い感じ、キュウリ、大量の予感。
 夕方、5時からは伊万里でサックス教室の発表会。僕の出し物は、尾崎豊の「I LOVE YOU」。男にとって楽器の対象は女性である、と思う。もてたい一心、である。尾崎の歌声のように切なく優しく、抱きかかえるように、吹きたい。これをものにできればそれをものにできる。あれがものになるうちに、それをものにしなければならない。なにがものになるうちに、なにをしなければならない・・・

 僕がサックスを始めるきっかけは、このタカダヨシヒコである。佐賀と伊万里に櫓庵治(ろあじ)と言うおしゃれな店があって、そこの社長である。その店で時々酒の会や、ワインの会と音楽をセットにして、色々な企画をしている。そして自らサックスを奏で、ソムリエの勉強などしている。愛車はBM、向上心旺盛で、かっこいい。出会った当初、25年ほど前は、着古したスーツのズボンの膝から下をチャン切って、ベルトは荒縄、やはり着古したワイシャツ、これは当時農家のオンちゃんのユニホームのように一般的であったのだが、そんな姿でトラクターに乗っていた。そんな彼のテイクファイブ、これだ~



2012年7月27日金曜日

夏草に 負けぬオンチャン 七十路(なそじ)前

 自宅の入口の両脇に広い畑がある。耕作放棄地である。雑草が生い茂り、出入りの都度、心までが荒れた感じになっていた。その畑を数年前から、松原さんと僕で、管理するようになった。
 松原さんの本業は電設工事、今は息子さんが社長を継いでいるが、相当の経験を有する技術者である。時に重機が入って入念に畑が整備される。しかしいわゆる農民ではない。当初はうちのバアサンや通りがかりの地区の「農民」が熱心な松原さんに良きアドバイスをしていたが、今やこの地区に松原さん以上に熱心な畑作農民はいない。たまの休みに畑に出ると、松原さんより営農指導を受ける。
 僕は玉ねぎ、じゃがいもを収穫した後はたまに草を払うぐらいで、夏場は休耕である。広い畑の一部にネギ、なすび、キュウリを僅かに植えている。それでも夏草に、負けそうである。対して隣のオンチャン:松原さんはみずいも、黒だいず、いも、キュウリにトマト、なんじゃかんじゃ、栽培されている。写真手前が隣のオンチャンの畑、その先が僕の畑。この夏草に負けないオンチャンは、70前である。
 夏草に 負けぬオンチャン 七十路(なそじ)前

2012年7月26日木曜日

病葉(わくらば)の 影に微笑む 瓜の花

 「種」からのキュウリがしっかりと育ってきた。名人農家はまずポットに播種し、苗を作り、苗を畑に植える。手間暇をかけるのである。週末ずぼら農業の僕は、直接畑に種をまいて、そのまま育てる。発芽率はあまり良くないのだろうが、案外よく育つ。トマトやナスなど、夏野菜では直播で育つのはキュウリだけかもしれない。肥料はたい肥、農薬はかけない。「結果無農薬栽培」である。
 家庭菜園のキュウリは店舗で購入するものに比べ、とげがチクチクとし、ぬめり、においが、ある。生きている野菜の生々しさがある。

 病葉(わくらば)の 影に微笑む 瓜の花
病気や虫のせいで枯れそうな葉の向こうにひっそりと黄色い花が付いている。たくさん取れそうな感じ。本陣のもろみでモロキュー、吟醸酒、日本の夏である。

2012年7月11日水曜日

1Q84読了&その次

約1週間での読了となった。さすが村上春樹、とても面白い小説である。ある宴席でこの本が話題となり(たぶん僕がこの話題に巻きこんだのだと思うが)、当時読んだのだが、難しいというか分かりにくいというか、との感想をある人が言った。流行の、話題の真っ最中に高価(文庫本の2倍以上の価格になる)なハードカバーで読めば、何となくそうなるような気がする。「半歩遅れの読書術」なる書評がとある新聞には掲載されているが、この手の小説は、文庫本が出て、それを携帯し、自分なりのリズムで読むのが、やはり良いようだ。
 現実の世界、例えば1984年を生きていて、同時進行する別の世界1Q84に入り込む。この別世界は、それまで生きてきて経験した現実の体験から生まれたものであり、日々経験や体験は積み上げられたり上書きされたりして、仮想や幻想のようでありしかし、全く根も葉もないことではない。俺は子供の頃、勉強も一番、喧嘩も一番、走っても一番やった、なんて言う人がときどきいる。周りの評価や現実がどうであれ、もしかしたら試験で一度くらいはものすごい達成感で上位に入った事、喧嘩で下部リーグの戦いで山崎邦正の様なヘタレに勝った事、運動会で鐘がなったら逆走すると言うルールの駆けっこで運命の鐘で逆走しダントツの一位になった事、があったかもしれない。面白くない事は時間とともに忘却の彼方へ、そして残った事は経験に裏打ちされた真実として、脳の大きな部分に鎮座する。現実の人生と言う世界と、現実を脳が若干加工して出来ている自分がヒーローの世界、仮想なのか幻想なのか、しかし事実なのである。
 酒を飲むと現実とそんな世界が交錯する。以前ブログアップした「世評・・・考」のようにフラッシュバックした思い出があまりにも鮮明で具体的で、それはひょっとしたら脳がノスタルジーを求めて作りだしたフェイクなのか、現実にあった事なのか、自分でも分からなくなったりする。その頃を時代考証したり整理したりしてみると、現実の出来事である。いつでもどこでもモテモテで、俺の人生最大のモテ期が今かよ、しかし考えてみたらおれが持てないはずは無い、家庭を取るか、女を取るか、悩んで、深く悩んで、悩みが極限に達し、何かがおかしいのに気づく、これは夢である。子供の頃隣のみのるちゃんと遊んでいて、田んぼの畦から水路に立ちションをする。みのるちゃんをすぐに終わって他の遊びの輪に合流する、僕も早く立ちションを終え遊びに戻りたいのだがなかなか終わらない、遊び終わってみんな帰り始めても終わらない、困りが極限に達し、ちょっと待て、そりゃなかろ、と気づいた瞬間夢の立ちションは現実のオネショに代わる。あまりにもリアルな夢、夢のような現実、夢であってほしい現実、現実であってほしい夢、交差しながら進行し、同時進行する別の世界はあまりにもリアルである。最終的には「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」のようにすべては夢なのかもしれない。
 1Q84の世界に入ると、月が2つ現れる。僕もそう言うときがある。酔っ払いである。みんなリアル人生の他にそれぞれの1Q84を持っている。友人のY下Y生君は1Q84的世界に入りその喜びを極秘に独占しようとする時、話し声が小さくなって、眼が三角になる、目がヒラクチの頭になる。またヤアモト君は気分がすぐれない時何かの錠剤を服用しているらしく、それを飲んでさらにレオピンと言う強壮剤を飲んだら、合わせ技一本で1Q84的世界に突入しその支配者になって君臨する。とまあ、1Q84をそう難しく読まず、この程度に読了した次第である。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」と言う本が出ている。ハードカバーで分厚い、筋トレができそうなくらい。これが文庫本になるのを待っている。何と先に漫画になりそうな話もある。

2012年7月2日月曜日

小説は文庫本で・・・

 小説はハードカバーでは買わない。理由は、まず高い、そして重い、かさばる。であるから手軽に常に手元にある、とはいかない。学校の読書の時間に読むわけではない。ちょっと空いた時間、寝る前。そして近頃は老人性早起き症の思わぬゆとりの時間。鞄に入れ、机の端にあり、枕元にある。トイレや風呂にでも持ち込む事がある。これが一番大事なことで、重厚で高価なものはそうした扱いができない。
 政治学や経済学などの原論的なものはハードカバーでなければならない。しかし小説は、たかが小説されど小説、とは言いつつも、文庫本でなければならない。
 村上春樹の1Q84がハードカバーで出たのは3年ほど前である。その頃にはひょっとしてノーベル文学賞を取るかも、と言われていたようにも思う。この本も随分と話題になり、購入しようかとも考えたが、上記のポリシーを翻すまでには至らなかった。
 歴史小説以外でこれほどまでの長編は今までに読んだ事がない。もうすぐ1冊目が終わる。さすがに村上春樹、おもしろい。