2014年12月22日月曜日

今でしょう 朔旦冬至と聞かば猶

 冬至と言う言葉には寒く暗いイメージを持っていた。しかし、中国では陰極まり陽復する「一陽来復」と呼ばれる吉日である。また今年の冬至は陰暦11月1日が冬至に当たり、19年に一度ある朔旦冬至(さくたんとうじ)と呼ばれる日で、宮中では祝宴が行われる吉日である。
 年の瀬も詰まってくると、仕残したことが気になり始める。暗く、寒く、行動力も落ち、ま、来年でもいいか、と先送りしようかとふと思う。焦る気持ちと妥協しようと言う気持ちのバランス。先送りを決めようとする刹那、某有名カリスマ予備校教師の声が響く、
 「いつやるか」
今でしょう 朔旦冬至と聞かば猶
 今日はじめれば、すべてうまくいく気がしてきた。何も変わってはいない、心が少しだけ変わっただけなのである。

2014年12月2日火曜日

電飾は家路の途中 冬の暮れ

 その日、男の心は荒(すさ)んでいた。季節が変わり冬ざれて行く様は、まさにその男の心模様であった。上司の叱責を受け、女性の事務スタッフにさえダメ出しを受ける、やるせない。12月に入り、いよいよ一年の営業成績の大詰めを迎えた。足りない、最低のノルマに、足りていない。
 紅葉に彩られた木々から赤が抜け、黄色が落ち、茶色が寂しく風に舞う。街路樹の枝が、今にも折れそうなか細い貧相な骨に見える。町から色があせていく。今日も営業成績は足踏み、上司の叱責を受ける。
 冬の暮れるのは早い。あっという間に真っ暗になる。荒んだ心を、折れそうになる一歩手前でどうにかこらえながら、家路につく。できれば帰りしなあと三軒営業訪問をすべきなのだが、心が、完全にぽっきりと折れてしまうのが怖い。
 いつもの帰り道、薄闇に灰色の建物、所々に内部の鉄筋から出た錆が流れ出ている。白が灰色に変色し錆に汚れたその建物に心を投影させながら、ぼんやりといつも通る通勤の道、そうか、帰りはもう真っ暗、何日も前から、この建物は薄明かりに浮かんではいなかったのか、季節の単純な明るさの加減にさえ心が動かない、その男の無機質化はどんどん進んでいたのである。
 建物の前の横断歩道の信号で止まる。おっ、その男はイルミネーションに気が付く。風景が冬ざれる程、心が荒む程、イルミネーションは綺麗に見える。車を路肩に止め、じっと見入る。一瞬何かを俯瞰したように感じた。日々の出来事に支配され、その出来事の為だけに生きて来たような気がした。点滅し流れる素朴な美しさは素朴な感動と、その素朴な感動が本来宿る幼い心を呼び起こしたようだ。一瞬人生を俯瞰し、そう、俺には「人生」がある、と思った。プラスチックが折れる様に、折れ曲がった個所の耐力が無くなるにしたがって退色し、遂に折れ離れる、その瞬間であったかもしれない。男は心のその部分を大事にいたわった。大事に大事に元に戻した。よし、まだ大丈夫、むしろこういう傷は後から強くなる、不思議に根拠のない自信が蘇ってきた。
 ここ数日、つらい顔をして家に帰っていたのかもしれない、そう思いながら男は家路を急いだ、愛する妻や子供がいるわが家へ。やれるかもしれない、そう男は思った。何も変わっていない、心がちょっとだけ変わっただけであることは分かっている・・・


 そんな元気が蘇るインフィニタスのイルミネーションです。