2016年3月20日日曜日

長崎新幹線のお話②

 昭和48年11月10日、九州新幹線西九州ルートの路線決定が行われた。ただ路線決定したからと言ってトントンと進むのではなく、新幹線は時には平然と昭和の三大バカ査定(戦艦ヤマト・伊勢湾干拓・青函トンネル)に類して表現されるなど、すんなりとはいかない。そこで、知恵が絞られる。
 昭和50年、原子力船むつが放射能漏れを起こし、修理を受け入れる港がなく、洋上を漂流することになった。それを受け入れるところは、すでに米軍の原子力艦艇が入るなど核アレルギーが少なく、放射能監視体制があり、修理機能を備えた造船所があることなどから、佐世保市しかない、と言う事になった。そこに登場するのは、辻一三佐世保市長、久保勘一長崎県知事、松田九郎県議会議長、三木武夫首相、自民党河本政調会長など。こういう時は
「何してもらえば、何する事は、政治の務めですから」とか
「何が、何せん時は、何しますから」とか
「そうそう、あなたの言う通り、僕の思う通り」何ぞと会話しながら、政治的な妥協が図られる。
 昭和51年2月10日、三木総理大臣から久保知事、辻市長に対し、佐世保港での「むつ」修理について要請がなされた。その後三木首相はむつの見返りは十分検討すると語り、久保知事が河本政調会長にむつ見返りは長崎新幹線の即時着工であるとの念押しを行うなどし、核封印方式など知恵が絞られ、昭和53年10月16日、むつは受け入れられた。
 三木総理の三木派はその後河本政調会長の河本派となるが、久保知事は知事になる前は三木派の参議院議員、松田九郎県議会議長はそうした流れの中で、その後河本派の代議士となる。河本敏夫は「クリーン三木の濁一点」と時に評された三木派の資金調達係で、大手海運会社三光汽船の実質的オーナー、その後衆議院選挙に際し三光汽船からバルクキャリア船をSSKに大量発注し、松田九郎をSSK丸抱え支援させ、松田九郎の初当選を支えたと、言われた。
つづく

0 件のコメント: